介護観を問うな、死生観を問え
長寿が最大の価値だった日本
先の大戦後では平均寿命が50歳代でした。それから小児医療や栄養や生活環境などが激変して、現代では80歳代となっています。
しかし、その一方では健康寿命と平均寿命に約10年間の開きが起こりました。逝去先として「病院」「介護施設」が共に約40%で、自宅は約15%となっています。
これは果たして幸せなことなのでしょうか。
介護という美名のもとの棄民か
管を繋がれた、あるいは認知症が重度となって自傷他傷行為に及ぶ、あるいは脳梗塞で半身麻痺となって自宅での生活が困難になった…。
こうして現代の社会システムから外れれば病院や介護施設に棄てられるしかないのが現状です。いくら言葉で飾り立てても現実は変わりません。
これは政府の責任ではありません。この事実を分かっていながら目を閉じて考えようとしない国民一人ひとりの責任です。そしてそのツケがまわり、ある日突然身の回りにその問題がやって来るのです。
現代の文化人にも罪はある
そこで初めて著名人の「介護に関する本」に触れる方も多いでしょう。「私の介護観」「介護奮闘記」「人生観」などで、恐れながらまったく役に立たないものばかりなのです。
正岡子規が不治の床で言った言葉があります。
「禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」
如何なる場合でも平気で生きること。
理解はできても実践は難しそうです。しかしながら、現代の棄民に対して考えるにはよいテキストです。
長寿に変わる価値観を持つこと。死生観。介護観などは二の次なのです。
『介護評論』